こんにちは!Omiです。
久喜市の観光スポットとして全国的に有名なのが関東最古の大社と言われる鷲宮神社ですが、今回はこの鷲宮神社の歴史について、歴史の素人の私が、同じく素人の皆さんにも分かり易く解説します。
私は史学科出身でもない歴史の素人ですが、ネットで「鷲宮神社の歴史」を検索すると、久喜市刊行の資料の他、wikiや観光系のキュレーションメディア、その他には結構古い時期に書かれた歴史趣味系のサイトがヒットします。
これらのサイトは、書かれている内容は充実しているものの、理解する為に必要な前提知識のハードルが高かったり、または内容が薄かったりと、私の感覚からすると素人にも分かり易く簡潔にまとまったサイトがありませんでしたので、これらのサイトを参考にしながら素人にも分かり易く「鷲宮神社の歴史」について解説します。
主に参考にしたのは久喜市刊行の資料
この記事を書くに当たって主に参考にしたのは前述の久喜市刊行の資料です。
こちらの資料では「鷲宮神社の歴史」について、それなりに分かり易くまとめられていますが、この資料を元にして私が「もう少しこう言う事も知りたいな~」と感じた点を付け加えながら解説を進めます。
この資料は紙版も購入出来ますので、紙の方が読みやすいと感じた方はこちらでお買い求め下さい。価格は1,300円です。
・郷土資料館(鷲宮5丁目33番1号)
・公文書館(下早見85番地の1)
関東最古の大社とはどう言う事なのか?
ネットで鷲宮神社について解説する記事には「関東最古の大社」と言う表現が用いられる事が多く、おそらくこの記事に辿り着いた方は他のサイトでこのような表現を目にされている事と思いますが、これについては鷲宮神社のホームページにもこのように書かれています。
当神社は、出雲族の草創に係る関東最古の大社である
ただし、これには史料による根拠がないとして異論が散見され、前述の久喜市刊行の資料では「関東最古の大社」と言う表現は見られません。
久喜市としては鷲宮神社が取っている立場をあからさまに否定するのもマズかろうと言う事で、華麗にスルーしているようにも思えます。
そもそも「大社」って何だよ?
「大社」と言う言葉には複数の異なる使われ方があり、「出雲大社」や「熊野大社」などのように神社の呼称としての使われ方、神社のランクを決める「社格」の一つとしての使われ方、更に広義には単純に大きい神社を「大社」と呼ぶ事もあります。
鷲宮神社が使っている「関東最古の大社」とは、これらのうち「社格」を表す「大社」なのか、単純に大きい神社としての「大社」なのかすらも明確ではないのですが、「関東最古」と言う部分に対して異議が唱えられているようです。
史料による根拠がないと言う話
鷲宮神社が「関東最古の大社」ではないと指摘する理由としては、これを証明する史料による裏付けがないから…と言う事に他なりません。
平安時代に全国各地の神社を管理する為に編纂された「延喜式神名帳」では、当時の影響力が大きかった神社を「大社」「小社」に格付けしていますが、ここには「鷲宮神社」の名前はありません。
一方で江戸時代に幕府によって、全国の神社をまとめる本所としての権限を与えられた「吉田神道」が1733年に完成させた「延喜式神名帳」の解釈を考証する書物である「神名帳考証」では、「鷲宮神社」は「延喜式神名帳」で行田市の埼玉古墳群内に存在する「前玉(さきたま)神社」の「論社」であるとされています。
遅くとも享保18年(1733年)に完成した『神名帳考証』までには延喜式内社・前玉神社論社に比定され、後に鷲宮神社もそれを受け入れている。明治以降、「前玉神社の論社」とは名乗らなくなったが、「関東最古」はそのまま残った。
■埼玉県立久喜図書館 (2110009)
以下の資料に記述があり、これを紹介した。『神道大系 古典註釈編 7 延喜式神名帳註釈』(神道大系編纂会編 1986)
p285「埼玉郡四座」中に「前玉神社二座」(「前玉」に「サキタマ」のふりがなあり)
「論社」とは「延喜式神名帳」に名前がある神社のうち、それが完全に特定出来ずに別の神社である可能性がある場合に、第二、第三の候補に当たる神社を指すものです。
これは「鷲宮神社」が「延喜式神名帳」に記載のある「前玉(さきたま)神社」かも知れない、と言う事なのではありますが、「前玉神社」は「大社」ではなく「小社」となっています。
また、「前玉神社」自体が明治以降の行政側の都合で「郷社」に格下げされてしまったからなのか、「鷲宮神社」は明治以降、『前玉神社の論社』とは名乗らなくなったそうなので、次の3つの理由から「鷲宮神社」が「関東最古の大社」である根拠がないと言われているようです。
とは言え…、鎌倉時代に編纂された史書である「吾妻鏡」には「鷲宮神社」の記述が度々見られるようになり、中世には東国の武士達にとっては「鷲宮神社」の威光は絶大なものであったようですので、仮に「関東最古の大社」である事が否定されたとしても、その歴史的・文化的価値が下がるものではないでしょう。
※こういう風にケチがつくのであれば、もっと違ったキャッチコピーを考えた方が良いような気もしますが…。
鷲宮神社の歴史
中世以前から現代までの千数百年の鷲宮神社の歴史を見て行くと、このように大雑把に4つに括り分けると分かり易いでしょう。
黎明期:古墳~平安時代
前述の通り、鷲宮神社の名前が史料に出て来るのは鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」以降ではありますが、冒頭で紹介した久喜市刊行の資料にはこのような記述が見られます。
平安時代以前の鷲宮神社の動向については、当時の記録が残されていないものの、太田荘の総鎮守といわれており、太田荘の開発者である太田氏に関する神社と考えられている。
※太田氏は藤原秀郷の後裔と称した地方豪族で、平安末期に下野国(現栃木県)に移住して小山氏となり小山荘を領した。鎌倉時代には下野国の守護を務め、室町初期には再び太田荘を領有する。
鷲宮神社の成り立ちには「太田荘」と言う「荘園」が深く関わっているようですが、「太田荘」の成り立ちを理解する為に、ここでは日本における「荘園」を年代によって大きく次の4つに区分します。
吾妻鏡には1188年の後白河法皇の院宣(命令)の時点で、太田荘が八条院領、武蔵国太田荘として成立していた事を示す記述があります。
八条院とは1161年に院号を与えられた、後白河法皇の父である鳥羽上皇の第三王女である事から、それ以前に藤原秀郷の後裔と称した太田氏(小山氏・結城氏の祖)によって太田荘が成立していた事は確かではあるものの、成立の時期についての詳細は不明なようです。
太田市の祖である藤原秀郷の没年が958年とされていますので、平安時代の末期である事は間違いないようです。
鷲宮神社の名前の由来から神社の歴史を考える
次に鷲宮神社の名前の由来から、神社の歴史を考えてみます。
久喜市刊行の資料には、鷲宮神社の名前の由来について定説がないと前置きした後に3つの説を紹介していますが、そのうち最も有力なのが「土師宮(ハジノミヤ)」が訛って「鷲宮(ワシノミヤ)」となった説です。
この説を理解するには、先に日本の神社に祀られている神々の体系について大雑把に押さえておく必要があります。
「天照大神」と「大国主命大神」の関係
神社には「八百万の神(やおろずのかみ)」つまりは自然~を祀ったものと、人を祀ったもの、その両方を祀ったものがあります。
人を祀った神社としては「伊勢神宮」や「明治神宮」などの「神宮」が、天皇家の特定の人物を祀った神社として有名です。
このうち明治神宮は明治天皇を祀った歴史の浅い神社ですが、「伊勢神宮」には天皇家の祖神である「天照大神」(アマテラスオオミカミ)が祀られています。
もともと「天照大神」は神々が住む天界を統治していた神で、下界は「大国主命大神」(オオクニヌシノオオカミ)と言う神が統治していました。
「天照大神」は「大国主命大神」が統治する下界の様子を見て、「下界は自分の子供たちが統治すべき」と考え、使者を「大国主命大神」のもとに遣わし、国を譲る事を迫りますが、「大国主命大神」も簡単には首を縦に振りません。
最終的には「大国主命大神」の息子である「建御名方神」(タケミナカタ)と、「天照大神」の使者である「建御雷神」(タケミカヅチ)が力比べを行い、「建御名方神」がこれに敗れた事で「大国主命大神」は国譲りを承諾します。
「大国主命大神」が国譲りと引き換えに「建御雷神」に望んで建てて貰ったのが「出雲大社」です。
つまりは、ヤマト王権側の祖神を祀ってあるのが「伊勢神宮」、ヤマト王権に敗れた出雲王権側の神を祀ってあるのが「出雲大社」という訳です。
敗者である筈の「出雲系の神々」を祀った神社もたくさんありますが、これは敗者側にも一定の配慮をする事により、出雲王権側の残存勢力の反乱を未然に防止するであるとか、或いはヤマト王権が国譲りによって出雲王権から統治を譲られたと言う、日本を統治する事の正当性を主張する為に必要なものであったからとも言われています。
鷲宮神社の祭神
鷲宮神社の祭神は次の三柱なのですが、この三柱とも前述の「大国主命大神」との関係が深い神々ですので、出雲系の神社と言われています。
先ほど、鷲宮神社の名前の由来は「土師宮(ハジノミヤ)」が訛って「鷲宮(ワシノミヤ)」となった説が有力と述べていますが、鷲宮神社の祭神である天穂日命の末裔が土師氏であり、土師氏は埴輪を発明し、古墳作りの技術を持った出雲出身の一族と言われています。
土師氏の祖神を祀っている事から、本来であれば「土師宮(ハジノミヤ)」とすべきところが「鷲宮(ワシノミヤ)」となったと言う事です。
これを裏付ける根拠として、久喜市刊行の資料ではこちらの3点が挙げられています。
なお、平安時代の土師器制作の集落跡が発見されていると言う事は、平安時代までは土師氏がこの周辺一帯と深い関りを持っていたとも考えられるのですが、その後の平安時代末期の太田氏による太田荘の領有と土師氏が結びつかないのは何故でしょう…。
概ね古墳時代と考えられる鷲宮神社の成立時期と、吾妻鏡の記述に見られる太田荘の登場までには相当な歴史的空白期間がありますので、そこは各自で想像するしかなさそうです。
鷲宮神社が太田荘の総鎮守であった事には疑いの余地はさなそうですが、久喜市刊行の資料にはこのような太田荘の範囲図が添付されています。
「古利根川」は江戸時代に行われた「利根川東遷以前の利根川」ですので、太田荘は当時の利根川の流れにに沿って開墾された荘園と言う事になります。
現在の地図に当てはめてみると、久喜エリアでは葛西用水路の右岸が太田荘、左岸が下河辺荘となります。
この地図を見る事で江戸時代の利根川東遷の前までは、久喜市の東側は「武蔵国」ではなく「下総国」であった事が分かります。(葛西用水路の左岸は香取系の神社が多い)
鎌倉時代~幕府の直接支配
古墳時代から平安時代に掛けては中央政府が畿内に置かれ、朝廷や貴族が政治を行っていましたので東国の重要度はそれほど高くはなく、また武士同士の武力による衝突や緊張が少なかった時代であったからか、鷲宮神社が歴史の表舞台に出て来る事はありませんでした。
それゆえに平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に、鷲宮神社の名前が挙がらなかったものと推察されますが、鎌倉時代に入ると政治の中心が東国に移った事から鷲宮神社の扱いが大きく変わります。
鷲宮神社の一帯は関東の中央部に当たる上、利根川の沃地であるとともに、鎌倉街道中道が奥州へ抜けると言う交通の要衝であった為、鎌倉幕府はこれを重要視し、太田荘は幕府の直轄領とされ、鷲宮神社は幕府の手厚い庇護を受けるようになりました。
幕府がいかに鷲宮神社を重要視していたかを示す根拠として、吾妻鏡にはこのようなエピソードが見られます。
また、武士の時代には武力での衝突が増えた為に、戦勝を祈願する対象としての神社の存在感が大きくなった事も、鷲宮神社が重要視されるようになった一因と言えそうです。
室町時代~戦国時代
太田荘は鎌倉時代には幕府の直轄領でしたが、室町初期の南北朝時代にはかつてこの土地を領有した太田氏の末裔である小山氏が再び領主となりました。
小山氏による支配
※小山氏は鎌倉時代には現在の小山市を拠点として下野国の守護を務めています。
小山氏は1335年に足利尊氏方として南朝方の新田義貞と戦い、これを破った功績の恩賞として太田荘を与えられましたが、室町時代は京都の足利幕府と鎌倉府の鎌倉公方足利家の対立や、鎌倉府と関東管領の上杉家、関東の有力豪族と鎌倉府の対立が頻繁に発生し、武力での小競り合いも多い時代でした。
北関東の名門であった小山氏もこのような勢力争い中で鎌倉府(2代目鎌倉公方 足利氏満)と対立した事がきっかけで、1380年代には鎌倉府による討伐対象とされてしまい、嫡流が滅亡してしまいます。
一方で鷲宮神社は太田荘が小山氏の統治下にあった40数年の間には小山氏からの崇敬を受け、その間に小山氏による社殿造営が行われました。
小山家嫡流は2代目鎌倉公方の足利氏満によって滅ぼされましたが、その後氏満の意向により、同族であった結城氏(鎌倉時代初期に小山氏から改名した一族)が小山氏を再興させています。
鎌倉公方~古河公方、足利家による支配
小山氏嫡流が2代目鎌倉公方の足利氏満に滅ぼされた事により、太田荘と鷲宮神社は鎌倉公方の勢力下に入りますが、その鎌倉公方も4代目の足利持氏の代に関東管領上杉家と揉めた事が発端となって室町幕府によって誅殺され、一時期鎌倉公方は中断されます。
のちに越後や関東の有力豪族達の願いが幕府に聞き入れられ、持氏の末子である足利成氏が5代目の鎌倉公方として鎌倉府への帰還を許されます。
この流れは文章だけだと複雑過ぎて分かりにくいと思いますので、久喜市刊行の資料に掲載されている家系図を転載します。
因みにこの家系図に出てくる足利家の人たちの半分くらいはロクな死に方してません。
それくらい室町時代は幕府による統治が不安定だったと言う事です。
室町幕府から鎌倉帰還を許された5代目公方の足利成氏ですが、父の持氏の誅殺には幕府だけではなく、鎌倉府の重要な補佐役であった関東管領上杉家も深く関わっていた事から上杉家への不信感は拭えず、更に後に上杉家中の武将が独断で成氏を襲撃した事が決定打となり、成氏は5年後の1455年に時の管領であった上杉憲忠を御所で謀殺してしまいます。
この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ「享徳の乱」が勃発しますが、この間に成氏は鎌倉を放棄して、下野の古河に本拠を移し、古河公方と呼ばれるようになります。
※この「享徳の乱」から関東の戦国時代が始まったとする説もあります。
古河周辺の太田荘、下河辺荘一帯は関東の中央部に当たる上、利根川の沃地であるとともに、鎌倉街道中道が奥州へ抜けると言う交通の要衝であった為、鎌倉幕府はこれを重要視して直轄領とした経緯がありますが、鎌倉公方時代の足利家もこの地を重視し、2代目氏満の時に小山氏を滅亡させて領地を奪い取っています。
以降は鷲宮神社は古河公方足利家の勢力下に入り、歴代の公方が戦勝祈願を行うようになっただけでなく、利根川の鷲宮関と町役の権利が与えられました。
当時、鷲宮神社が利根川に面し、通行する船から関銭を徴収していたことや、神社を中心とした門前町が形成されて町役を担っていたことが知られる。
戦国大名 北条氏による支配
「享徳の乱」から時代が100年ほど下った1550年代には、古河公方は4代目の足利晴氏でしたが、晴氏は戦国大名の北条氏綱と同盟を結び、娘の芳春院を妾として迎え入れていました。
織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いが1560年ですので、1550年代は戦国時代の終盤です。
この頃になると足利幕府や古河公方、関東管領を輩出する山之内・扇谷の両上杉家の権威も失墜し、実力も関東の一戦国大名クラスになりつつありました。
足利晴氏は、父の高基の代から敵対していた、叔父である足利義明を滅ぼす為に北条氏綱と同盟を結び、義明を滅ぼしますが、氏綱の死後に北条家を継いだ氏康と敵対してしまいます。
晴氏は山之内・扇谷の両上杉家と結び、氏康と河越城で戦うも、これに敗れます。
この時、晴氏には長子である藤氏と、北条氏康の妹である芳春院との間に生まれた子である義氏がいましたが、晴氏と氏康の関係改善が進まず、ついには氏康の政略により晴氏は長子の藤氏を差し置いて家督を北条家の血筋である元服前の義氏に譲る事を余儀なくされます。
これに不満を持った晴氏と藤氏は古河で挙兵するも、あっさりと氏康に鎮圧され、最後の古河公方である5代目の義氏は北条氏の傀儡となりました。
以降は北条氏が太田荘、下河辺荘一帯を支配する事となり、鷲宮神社もこの支配下に組み込まれる事になります。
北条氏の支配下に入った鷲宮神社は、従来からの宗教的な役割だけでなく、軍事的な役割を担うようになります。
1584年頃の北条氏の朱印状(公的文書)の宛先は、神主の大内晴泰と鷲宮在城衆となっている事から、鷲宮神社周辺には城が構築されていた事が窺えます。
この城は鷲宮神社の西側にある栗原城であるとされ、おそらく軍事資材の確保の目的のため、鷲宮神社の樹木の伐採を禁じるであるとか、或いは兵糧を送るであるなどの命令を受け、兵站の拠点としても機能していたようです。
因みに現在の栗原城跡には祠が立っているだけで、それ以外に城の痕跡はありません。
戦国時代の末期である1590年になると、豊臣秀吉による北条氏の小田原征伐が始まった影響で関東周辺の動きがあわただしくなり、鷲宮神社に対する豊臣方への寝返りを防ぐ目的のために改めて神領を保証する書簡が北条氏より送られています。
江戸時代以降に続く>>>
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